みんなのプライバシー 国の責任


僕の場合、自分がプライバシーについて考える機会を持っていたのは、作曲家時代と楽譜の編集社で勤めていた時に「著作権」の問題が身近だった20代前半と、ミシェル・フーコーの「監獄の歴史」を読んで興味を持っていた20代後半の時になります。


フーコーの著作は、権力が人を監視するにあたって、プライバシーを生活の中から物理的に排除する事、建物の形から部屋の配置に始まり、24時間管理体制をどのように構築すればいいのか、という角度で「プライバシー」について考えさせてくれるものでした。
国家はそのよりよい運用のために人民をシステム的に管理する必要があります。その管理が行き過ぎると「1984年」のビックブラザーにイメージが及んでいくことになります。


率直な現状認識として「語彙としてプライバシーを持っていない」という話を書いたけれど、もう一つ感じているのは、たとえば靖国に代表されるような、暗黙的に主張を排除するような圧力を伴う言葉がある、というのがあります。たとえば、民族問題、移民問題、宗教、皇室等々。少し前に糸井さんが「政治は恐いものだから関わりも発言も控えていた」というような事を言ってました。これらの暗黙の禁止用語は、国家や社会の治安を安定させる事につながるものでもあったのかもしれません。

人間というのはプライバシーが守られ、邪魔から自由になると創造性を発揮する。
http://d.hatena.ne.jp/hideki1126/20120211/1328944537:みんなのプライバシー 6

「プライバシー」は自立と尊厳を守るものであるという側面があり、それは創造性の発揮につながると。フーコーの著書は監獄に焦点を当てているけれど、自立と尊厳からおこる社会風紀の乱れ、を国家は監視する必要がある事を示唆しています。この「個人の自立と尊厳」は、社会的には「個人の身勝手や無責任」と結びつく問題となるわけです。日本は高度成長時代に一億力を合わせて、という空気の中で、「プライバシー」という言葉も排除していたのではないか、と思われてきます。これは個々人がプライバシーを考える機会を多くは持っていない社会だった、という事なんじゃないかと。


ツイートの中には、自分の部屋に関する親の干渉、についてのものが定期的にTLに流れてきます。親は何故子供のプライバシーに干渉するのでしょうか。彼ログのように彼女は何故、彼のプライバシーに干渉するのでしょうか。少なくても自分の管理下においている人間に関して、「管理しきれなくなる恐れ」が感情的にあるからです。であれば、国や企業もまた、個人のプライバシーに恐れを抱いている、と言える事につながっていきます。個人の側から考えると、プライバシーを強く意識する必要のない社会というのは、国や社会が「プライバシーを叫ばない事でプライバシーを守ってくれている」、という「安心」があった、という事が出来そうです。

一人ひとりが自分のプライバシーについて、以前よりもずっと気にしていることは確かだ

とジェフ・ジャービスはいいます。これは情報通信技術の発達により誕生した「星社会」がまったく新しい単位の社会なので、僕たちが「プライバシー」は国や社会が保護してくれるという「自国民として持っていた安心」が崩れている事があげられるかと思います。「プライバシーが大事である」という時、そこには「侵害される事でわが身に降りかかる感情的な恐怖」があり、この恐れについて国や社会に安心を求める事が出来ない状況が目の前に突然無視できない姿をして現れてきた、そういう事ではないかと感じます。


ここのところの動きとして、アメリカは国として消費者プライバシーポリシー権利章典を発表したという事で、「国民のプライバシーを守る」という国家としての責任を持っている事が分かりました。


●参考著書とリンク
ミシェル・フーコー「監獄の歴史」
ジェフ・ジャービス「パブリック」
ジョージ・オーウェル「1984年」
https://twitter.com/#!/search/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC:twitterプライバシーTL