プライバシー 前夜


プライバシーが法的な意味を持つには産業革命が大きな役割を果たしたと言えるでしょうが、言葉や概念はずいぶん前から登場していました。現代人である僕らが「プライバシー」という語彙を使用する場合、親、兄弟などの部屋や鞄などへの干渉あたりから概念が育っているようです。


イスラムなどが代表的ですが、宗教の戒律などで女性は容姿を見せない、と言ったものも今に続くプライバシーの概念の根底にあるとも考えられます。「秘密」が多ければ多いほど「あの女性は神秘的である」などと言われたりする事があります。時代はずいぶん変わりましたが、多くを語らない事が男の美学としてあった時代もあります。高倉健さんなどは背中で語り、ほんのわずかな表情で語る、そんなことが出来る稀有な俳優さんであるでしょう。


見せない、語らない、というのは神秘性を高める効果があります。多少飛躍するけれど、これはアイデンティティを形成する上で多少なりとも自己戦略を立てるときに意識するのではないでしょうか。「おおっ、こいつやるな」と思わせる効果的な方法の一つは、周りが思ってもいなかった能力をここぞという時に発揮してみせることだったりします。つまりその時までは秘めておく情報だったりするわけです。


18世紀のサミュエル・ジョンソンの英語辞典では「秘密」の中に項目として「プライバシー」が置かれています。

プライバシー。秘密、不可視もしくは未知の状態(大沢正道訳)


つまり秘密を説明する際に出現しているので、「秘密」の下位概念として使用されていたことが分かります。さらに古くは1450年の「オックスフォード英英辞典」が初出であると、名和小太郎氏が調べています。その中では以下のように解説されています。

1.他者の社会あるいは公共的な関心からぬけだす状態、あるいはその条件
2.公表あるいは表現行為の欠如、あるいはその忌避


そしてさらに過去には「私的、あるいは引退した場所」や「(女性の)隠し所」などの意味があったと指摘しています。


一方文化人類学的なアプローチも行われてきました。エドワードホールが著書「かくれた次元」などで展開した「近接空間論(プログセミクス)」を、船越一幸氏はこのプログセミクスがプライバシー概念の動物行動学的起源であるとして研究をされていました。


青柳武彦氏はその論文「情報化時代のプライバシー研究」において、プライバシー意識の芽生えをこの論から展開されています。


「近接空間論」というのは、動物はみんなバブルのような空間を持っていて、敵味方に関して、そのバブル空間が大きな役割を果たしているというものです。動物の個体や集団には、特有の縄張りともいうべきスペーシング機構としての生活領域があるといい、受け入れるか、逃走するか、攻撃するか、それぞれを選択する臨海距離があるのだと考えていきます。

一定の空間に生活する個体の数が一定限度を越すとストレスが発生して、脳下垂体や副腎系に影響を与えて個体を弱化させ、死亡率を高め、受胎率を減らし、場合によって集団自殺をももたらしていていの空間における個体の数を調整する自然のメカニズムとして機能する事がある。


とホールは言います。
この論でいくと、日本は国土に対して、限度を超えた人口となってしまったため、「個体の弱化」や「受胎率を減らす」という状況になっているのかもしれません。


以下のリンクはちきりんさんの記事ですが、栄枯盛衰というか世界の中の都市、ということで結構考えさせられます。

3000年の世界で一番大きな都市は?


そしてホールが立てわけたスペーシング機構としての人間距離(じんかんきょり)になります。

1.親密距離:赤ちゃんを抱っこする時や恋人同士が触れ合う距離
2.私的距離:夫婦や恋人など手を伸ばすと触れることが出来る距離
3.社会的距離:友人関係やビジネス関係。相手の表情を見ることが出来る距離
4.公共的距離:演説や講演を聞く時の距離(他人との間で確保したいと感じる距離)


最後にもう一人、環境心理学者のロバート・ソマーの論です。
ホールと同じようにヒトの行動空間は動物の行動空間から連続している、という考えを基本にしながら、あらたに、社会的秩序に言及しています。

動物の個体は、好感行動によって、個体間の序列を形成し、それによって集団内の社会的秩序を安定させるが、人間社会でも、集団内での個体の地位と、空間使用の在り方は密接に相関している。すなわち、地位の高い者がより広く空間(パーソナルスペース)を所有し、より大きな移動の自由を持つ


「パーソナルスペース」とは「プライバシー空間」を表している、と考えられます。「パーソナル」というキーワードもまた、プライバシーを考える上で役立ちそうです。そしてそのプライバシー空間を防衛するには2つのやり方があるといいます。

1.攻撃:積極的にテリトリーを拡張する
2.防衛:消極的にテリトリーを確保する


行動学的にプライバシーは動物からヒトへ、その連続性を認めるならば「自然権」としての性格も持ち合わせている、とも考えられます。


あまりにも早足ですが、プライバシー前夜として「神秘性とプライバシー」そして「プログセミクス」が研究されている、という紹介になります。現在直面している問題を直接解くカギにはならないけれど、プライバシーの概念をあまりにも漠然としたモノから、多少解放してくれるでしょうか。



※参考------------------------

かくれた次元 [単行本]エドワード・ホール (著), 日高 敏隆 (翻訳), 佐藤 信行 (翻訳) みすず書房 (2000)

論文(2008年):情報化時代のプライバシー研究 「個の尊厳」と「公共性」の調和に向けて 青柳武彦
https://ndlopac.ndl.go.jp/F/CXQDAKT5TLSILUSED97J8NKGMUDKQUGJHV1JSVG1TJXI4XH5JA-10466?func=find-c&=&=&=&=&=&ccl_term=001%20%3D%209789465&adjacent=N&x=0&y=0&con_lng=jpn&pds_handle=

個人データ保護(イノベーションによるプライバシー像の変容)名和小太郎著 みすず書房(2008)