プライバシー OECDの勧告2


1960年以降に「コンピュータ」と「インターネット」の世界が登場しました。これは「デジタル」「End-to-End」の世界と言うことも出来ます。


コンピュータの原理は「0」と「1」だけを使用して世界を構築する、というものです。文字も画像も映像もその他のファイルもプログラムも、そしてプライバシー情報も。すべて「デジタル情報」という一つの共通形式で処理されています。


インターネットの原理はTCP/IPで、TCP「End-to-End」アーキテクチャを採用しています。「End-to-End」というのはインターネットはどんなデータがやり取りされようがその中身には感知していない、というものです。回線を通るデータがなんであれパケットという段ボールに入れて自由にコンピュータ間を渡り歩いていきます。画像なのか映像なのかなどは、送り手のコンピュータと、受け手のコンピュータが使用するソフトウェアに、その役割をまかせています。


この事はインターネットの自由性を広げていて、「End-to-End」であったからこそ、ケーブルの中では中身を一切気にしないやり方であったこそ、ここまで急速にインターネットは広まった、と言うことも出来ます。第八大陸や星社会と呼ばれる新たな生活空間は「デジタル」「End-to-End」を大地と空に持つ世界なのです。


その自由にデータをやり取りする世界では、プライバシー情報も例外ではありません。


情報通信技術がどのようなもので、この星社会がどのように成り立っているのか、この視点で「情報教育」の必要があるように考えてます。「デジタル」の意味と意義。「End-to-End」の意味と意義。プライバシー情報を扱うことでこの2つのアーキテクチャが果たしてきた、もしくは果たしてしまったこの状況を認識できるよう促していく。そうすることで「私的領域への挑戦」に参戦できるようになる。


次世代の日本のあり方に対して、たとえば東さんも「一般意思2.0」において、素晴らしい世界が来るとは言ってません。どちらかというと味気ない、無味乾燥の世界に向かっているのではないか、という悲哀をその文章ににじませているように思えます。しかしその著書を読んだ人はわかると思いますが、東さんは私的領域のことをほとんど語っていません。国家と市民社会はより実務的に、より合理的に人々の声を吸い上げ、様々な問題を処理していく、そんな世界が現れるのかもしれません。でもその世界で無味乾燥的に生きるのか、その中で新しい楽しさや優雅さを獲得していくのかは、個人それぞれの問題になっていく。


どんなに合理的になろうが、新しいことや楽しいことを求める気持ちがなくなる、なんて考えられません。「私的領域への挑戦」は、僕たち一人ひとりがまさに自分が主役の時代に生きる、ということでしょう。しかしいつの時代もこちらが無知のうちに構造を決めてしまおう、という流れがあります。自分が主役の時代が目の前にあるのに「プライバシーって何だよ?!」っていつまでも言ってるわけにはいきません。監視技術や追跡技術は、日々新たな監視・追跡社会へと全体を誘っています。


OECDガイドラインは30年前に作成されたものです。確認してみるとオプト・イン、オプト・アウトを含めてその内容は拘束力を持たないものの、各国に影響を与える価値を持っていたことがわかります。そして今、「忘れられる権利」や「追跡拒否」などが新たに欧米で追加されつつあるという流れが見えてきます。